【コラム:一人でキャッチボール第8回 ── 文:高島学】

山本KID徳郁選手が亡くなったという知らせを聞いたとき、とにかく事実関係を確認して記事を創らないといけないという感情しかなかった。
個人的な感情は入り込む余地がない、記事は発表されたことをまとめただけの文字が並んだ。サイトでアップされると拡散のためにSNSに記事を張ることにしている。その際、何か記事に関連することを言及するようにというアドバイスを受け、それに従っている。KID君が亡くなったことにして、「凄く礼儀正しい青年でした」という個人の想いを書き加えようとしたが、残されたご家族がいることだし、自分ごときが何か彼の人間性に触れることは憚れ、ご冥福をお祈りしますという一文だけ書き記した。

数多くの人がKID君が如何に良いヤツだったかをSNSで伝えていた。ホラ、自分なんかが触れる必要はなかったと思った一方で、皆の彼の死を悼む言葉だけでは、山本KID徳郁というファイターの大切な部分が抜け落ちているという感情が浮かんできた。もちろん、皆、ファイターの彼を失ったことでなく、人間としての彼を失くしたことを悲しみ、嘆き、在りし日を思い出してるのだから、当然だろう。

一方で記者としての僕が誰かを活字にする場合、あまり人間性は関係ない。ファイターとしての技量、度量に触れるのが自分の仕事だ。僕にとってKID君は、最も怖い選手だった。格闘技界で心から怖いと思ったのは石井館長とKID君の2人だけだ。

「俺、説教されに来ているんですかね」と呟いた彼が、左手で拳を握り、右の掌をバシバシと叩き出した時、勘弁してくれよ──と思った。 その対象はKID君ではない。CS系のチャンネルでブラジルのMMA大会を放送する番組で解説をしていた時、KID君がゲストでやってきた。収録時に、実況のYさんが「KID選手も先日、ちょっとやり過ぎたことがありましたね」と彼でなく、自分に話を振ってきた。勘弁してくれよ。本人に触れよ──と心の底から思った。

ちょっとやり過ぎたこと。2002年9月、プロ修斗公式戦で勝田哲夫選手と戦ったKID君がパウンドでTKO勝ちをしたあとも、勝田を殴り続けた。当時のK’zの面々とピュアブレッドの面々が、リングの上と下、いたるところで取っ組み合いを演じた。何年も経ってアウトサイダーのリング上で乱闘のような小競り合いを目にしたとき、「しょうもな。本当の乱闘っていうのはK’zとピュアブレッドのことを言うんだよ」と口にしてしまったこともあった。アレは本物の集団✖集団の喧嘩だった。

僕は記者だから、思ったことを書く。決着がついてから、殴るのは悪だ。そのことを指摘したうえで試合レポートで、侍は斬った刀は鞘に収めると書いた。そして、内心はビクつきながらエンセンの付き添いの下で、彼を取材した。

「あの記事、読みました。アレ、その通りですよね。そうだなって、それが格好良いなって思いましたよ」。 KID君は、そう言っていた──だからもう蒸し返すなよ、というのが弱気だが収録時の偽らざる想いだった。でも、聞かれたら正直に記者として、自分の気持ちを話すしかない。「そうですね、スポーツなので決着がついた後で手を出してはいけないですね」と。

KID君の一言で、収録は一旦休憩が入った。そして、控室に僕らは戻ることになった。お台場の結構高いビルの上層部から、2階か3階にある控室に戻る。フロアディレクターもADもエレベーターには乗り込んでこなかった。直方体の狭い空間に僕、KID君、そして彼のマネージャーの3人。 と、KID君が首相撲の組みを見せ、マネージャー氏に「あぁ、誰か殴りてぇ」とハッキリとした口調で話しかけた。やられる──と直感した。そして、ただひたすらエレベーターが早く到着することを祈った。もちろん、そこで何かあったわけじゃない。

でもね、アレは明らかにKID君が刀を抜いた瞬間だった。ただし、相手は斬る価値がある人間ではない。斬らずに刀を鞘に収めた。それからどのような収録があったのか、見事なくらい頭の中から抜け落ちているが、彼の取材は続いた。

ハワイで肋骨を折りながら試合中は痛そうな素振りを一切見せずに、ジェフ・カーランに勝った。ファンから姿が見えなくなると、ワキ腹を抑えて一気に表情が厳しくなった彼のバックステージに立ち会うことができた。修斗で最後の試合となったケイレブ・ミッチェル戦でKO勝ちを収めた彼は、後楽園ホールの控室に入るドアの前、階段を下りているところで取材が終わるや、笑みを浮かべてこう言った。

「俺、殴り続けなかったでしょ」

格闘の──神の子、になる前のKID君の笑顔を忘れることはない。合掌。

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