【コラム:一人でキャッチボール第7回 ── 文:高島学】

 レイ・クーパーの息子がMMAを戦っている。2年ぐらい前になって気付いたと思う。ハワイのローカルイベントで戦績を重ねていて、もう少し身近なイベントで出ることがあれば取材したいと心の底から思った。しかし、PXCで敗れたことで取材対象から外さざるを得なかった。ただ個人的なつながりで取材するのは、記者という仕事を全うするうえで大きくバランスを失ってしまうことになる。
 そのレイ・クーパーの息子が、6月のPFLでジェイク・シールズにTKO勝ちを収めた。このままメジャーシーンで活躍するかもしれない。大きな一勝だ。14年前に父レイ・クーパーの倒した相手に世代を超えてリベンジを果たした。向うで受けそうなトピックだ。
 とはいっても、今やレイ・クーパーって誰なんだと思われる人も多いだろう。ブラダの愛称を持つ彼は、1997年1月に初めて試合に出場したハワイのMMA界、パイオニアの1人だ。スーパーブロウルという大会で、メインにフランク・シャムロックが出場するということで当時、格通の記者だったモトジこと本島燈家氏が現地取材を行っている。
 ルミナがボテーリョに勝った夜の前後だったと記憶している。モトジが「良い選手がいましたよ」と、目を輝かせて教えてくれた。動画なんてない時代だ。どれぐらいタイムラグがあったか、VHSのビデオでブラダの試合を初めて見た。
 ボクシングができて、テイクダウンもできる。そして、トップを取ってからは拳だけでなくガンガンと頭を落とす。頭突きで相手を戦闘不能に追い込み、勝ち名乗りを受けた時に見せた冷酷な笑み。その姿を見た時、海のものとも山のものともつかないMMA(当時はNHBと呼ばれていた)を引っ張る存在になるという直感があった。
 その直感はまぁ、半分以上は外れた。ブラダは非常に良い選手だったが、これといって大きな結果を残すファイターになったわけではない。
 ただし、エンセン井上をして『そんな危険な場所に行っちゃだめ』と忠告された街、オアフ島のワイパフ育ちのブラダとジーザス・イズ・ロード・ジム勢はハワイの支配者階級である白人たちや日系コロニーとは別にロコとして、かの地のMMAを盛り上げ、支えていくことになった。
 あの勝ち名乗りを受けながら見せたゾッとするような冷酷な笑みは、彼の生い立ちを連想させた。実際、ブラダ自身も初めてのインタビューで「殺人とレイプ以外なら、あらゆる悪さに手を染めた」と言っていた。ただし、過去形だ。ブラダとその周囲は敬虔なクリスチャンとなり、手に職を持ちながらMMAという新しいスポーツの習得と、結果を出すためにJILジムを結成した。
ブラダより先にスーパーブロウルに出場していた先駆者デヴィッド・パアルイ。ロン・ジューン。山本KID徳郁をヒザ蹴りで破ったボーゾー。ビッグ・オー。ブレナンやカイのカマカ兄弟。ブラダとボーゾーが従弟で、ブラダの奥方とロンの奥方が姉妹、ブレナンやカイは彼女たちの弟……JIL勢はいってみれば大きなオハナだった。
そしてハワイやグアム、本土、日本で会うたびに『誰ソレに子供が生まれた』という話を聞かされたものだ。その後、JILから808ファイトファクトリーが誕生し、ロンやカマカ兄弟が中心となった後者の方が大所帯になっていった。
1996年6月のスーパーブロウルから2006年1月のROTRまで、どれだけハワイで取材を行っただろうか。すぐに正確な数は思い出されない。JIL勢が練習するワイパフの高校や、彼らが通う教会のミサも訪れた。
しかし、ボクシングコミッションの認可を受けることで、一般に認められスポーツ&エンターテイメントとして発展したMMAがメジャー化していく反動のように、コミッション的な組織がなかったハワイでメジャー大会が開かれることはなくなっていった。
上に挙げたオハナ達も、順に現役を退いていった。
北米で唯一のオール女子MMA大会のInvicta FCにラケル・パアルイというファイターが出場した。デヴィッド・パアルイの娘だった。同じくインヴィクタではレイチェル・オストビッチ、ビッグ・オーの娘が戦うようになる。ビッグ・オーの息子クリスがパンクラスにやってきた。
ワイパフの高校のレスリングマットでじゃれ合っていた子供達。教会でパワフルな讃美歌をうたっていたキッズが、プロフェッショナル・ファイターとしてハワイのMMAの屋台骨を支える時代になっていた。
ブラダボーイのPFLでの勝利──今、ブラダは息子を自宅のガレージで指導しているという。ロン・ジューンは808トップチームを率い、ビッグ・オーがJILを守り、トリニティ・キングスというイベントもプロモートしている。さらにはボーゾーが手塩を掛けて育てリング・ボクシングという団体でナショナル王座を獲得した息子が、MMAデビューに備えブラダとブラダボーイとトレーニングに励んでいるらしい。
 年を取ったといえばそれまでだが、ハワイという限定した地域で一つのスポーツの起こり、世代交代を実際に目にすることができた。MMAの記者になって良かったと心底思える。

1999年6月にK’z Factory勢がワイパフの高校で練習をしていた時代のJILジムを訪問。ルミナの隣で赤ん坊を抱いているのがブラダだ

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