【コラム:一人でキャッチボール第4回 ── 文:高島学】

リンキン・パークのチャールズ・ベニントンが亡くなったというニュースを見たとき、最初に頭を過ったのがNumbの旋律──水垣偉弥の入場曲だった。

ここ3試合ほどはアヴィーチのWake me upでケージに向かっていた水垣だが、やはりNumbのイメージが強い。なんせ、未だに80年代の洋楽が一番だと思っているコンクリートのような脳みそをしている自分にとって、リンキン・バークも、チャールズ・ベニントンも後追いの情報だ。『あの水垣が使っている曲、何だろう?』と思い調べた。なのでNumbは水垣ありきの曲だった。

I’m tired of being what you want me to be, Feeling so faithless, lost under the surface~というフレーズを聞くと、あの日のことを思い出す。2012年2月26日のさいたまスーパーアリーナ。

まだ朝の9時ぐらいだったか。Numbをバックにオクタゴンに向かっていた水垣に、2万人以上の集まったファンから大きな声援が飛んだ。その時の光景に、自分はあまりに感激してしまい──記者席に座っていて涙がこぼれた。

そして『俺の役目は終わったな』と感じた。北米のMMAの価値を日本で知ってもらう──役割が終わったと感じ、涙が出たわけではない。涙が出て、その事実に気付いたのだ。もうUFCをプッシュしても、国内の関係者、ファイター、そして一番自分にとって大切な読者から、誹りを受けることはない。日本のMMAの再生にはUFCは欠かせない存在となった。だから、もう思う存分──UFCの取材は若い子たちがやれば良い。自分はUFCを目指す選手たちの活動を追うようにしたい。そう素直に思った。

昨年6月、都内某所にて。キャップを角度をつけて被るのは、10年近く変わらない

その後、勝っても負けてもケージのなかで涙を流す、泣き虫キャラが定着した水垣の試合でもらい泣きをしたことは一度もない。逆にドミニク・クルーズに惨敗を喫し、嗚咽状態で控室に戻る彼に対し、「泣くなッ!!」と記者席から怒鳴ってしまったぐらいだ。

年を食い、ちょっとした頃で涙腺が決壊するようになった自分だが、水垣の試合で涙がこぼれたのは、あの日のさいたまスーパーアリーナだけだったと記憶している。ひょっとすると、ブライアン・キャラウェイ戦ではウルっと来たかもしれないが。

2005年、日本の格闘技界がピークを迎える年にプロ修斗でデビューを迎えた水垣。その年の新人王になったものの、この国の格闘技バブルはあっけなく崩壊した。暫くの間はDREAMと戦極という後継プロモーションが、大型興行を地上波に乗せて行う余力があったもののバンタム級の彼には、大舞台は縁のある存在ではなかった。

そんなころ、GCMの久保豊喜社長がDOGから発展させたCAGE FORCEをスタートさせた。国内MMAで初めてユニファイド、その先にはUFCがあるという道筋を明確にした久保さんは、実は慧眼の持ち主だった。

07年はライト級とウェルター級でトーナメントを開催し、ウェルター級で優勝した吉田善行がUFCへ。翌08年はフェザー級とバンタム級でトーナメントが行われ、バンタム級を制した水垣が──当時UFCはライト級までしか階級を設けていなかったため、同じZUFFAが軽量級を全米規模に普及させるために買収し、ナショナルネットワークのケーブル局でライブ中継を始めた──WECにステップアップを果たした。

2009年2月、ベガスのエクストリーム・クートゥアーでゲイリー・メイナード。この2カ月後にWECデビューを果たした

色々と問題のあったCAGE FORCEと久保さんだが、観客受けするために打撃偏重の試合を選手に強いることもなく、レフェリーが介入する場面を極力減らしていた。日本人選手が地力をつけるために必要な試合内容に対し、一切注文を付けることがなかった。10年近く経った今、久保さんというプロモーターは本当に稀有な存在だったと気付かされる。

そして、CAGE FORCEという場から選手がステップアップを果たした際、自らマネージメントをするような行為に出ず、選手の意志を尊重し専門家に任せた。この点も、久保さんは非常に潔かった。閑話休題。

水垣はデビュー戦が代役ながら当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったWEC世界バンタム級王者ミゲール・トーレスに挑戦した。判定で敗れたものの、殴り負けないスタイルはズッファ首脳の絶対的な信頼を得ることに成功。UFCと違い、イベント数が限られていたWECは65キロ以下級の戦いを世間に認めさせるために、世界のトップ中のトップとしか契約をしていなかった。そして、そんな実力者同士の試合が毎度のように繰り返され、ファイターには結果だけでなく内容が求められた。

水垣はWECを生き抜いた。2010年の年末にUFCがWECを吸収した際に、UFC行きが叶った日本人ファイターは水垣だけだ。多くの人が見落としがちだが、WECで生き残ることができた──その事実こそ、MMAファイターとして彼が最も評価される点だと自分は思っている。

それでも彼の偉業を知るのは、一部の通のファン。そして関係者でしかない。地上波から格闘技が姿を消してからは、彼が戦績を積み重ねた米国と日本のMMAを取り巻く環境の差は埋めがたいモノになっていた。

2010年4月、WEC唯一のPPV大会にも水垣は出場しハニ・ヤヒーラに判定勝ち

北沢タウンホールから後楽園ホール、ディファ有明を経て太平洋を越え、UFCファイターとして凱旋した彼を2万人のファンが、さいたまスーパーアリーナで大きな声援とともに迎え入れた。感無量とはこのことだ。

水垣は、UFCで日本人最多記録となる5連勝を挙げた。UFCでは選手層が広がり、WEC時代と比較すると対戦相手の強度もある程度落ちた。あのWECの日々を生き抜いた彼は、既に135ポンドでワールドクラスの実力を有していたのだから、十分にあり得る結果だった。

ただし、オクタゴンに61.2キロの戦いが根付くと、世界中から力のある選手が見いだされ、瞬く間にWECを上回る実力者がUFCには集まるようになった。そのような場で水垣は、勝てば世界挑戦というドミニク・クルーズとの試合をラスベガスで経験したのだ。

WECとUFC、世界の頂点で積み重ねた試合数は19試合。これは岡見勇信のUFC戦績18を1つ上回る。メジャーで戦うことを日常とした水垣、そして岡見こそ日本のMMA界にとって野茂英雄であり、中田英寿である。

そしてUFCファイターとして凱旋

今月の23日には、さいたまスーパーアリーナでUFC JAPANが開催される。ただし、世界一のMMAイベントが日本に上陸して一番盛り上がったのは2012年2月の大会であったことは疑いようがない。残念ながら、(現時点で)この国にはUFCを頂点としたMMAは根付かなかった。

それでも世界一になることを目標に戦う日本人ファイターは、UFCを目指す。水垣や岡見が、そうであったように。

一方でUFCをリリースされた後も、彼らは日本に戻ることはなく海外で戦う選択をし、完全実力主義の戦いのなかでキャリアを全うしようとしている。

UFC JAPAN 2017の1週間後、水垣はモスクワでデビュー以来9連勝のロシアの新鋭と戦う。

また、アイツは人知れず戦うことになった。だからこそ、自分は思う。

己のMMAに対する無知をビジネスや人気、知名度という言葉に置き換えたがる──ような人間が大手を振るうのは構わない。ただし、そんな連中が水垣偉弥(と岡見勇信)を軽んじるようなことがあれば、世の中の誰が何と思おうが、俺は決してソイツらを許さない。

ベガス大会のポストファイト・プレスカンファレンスに出席しても、キャップを斜めに被る

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

ピックアップ記事

facebook

PAGE TOP