【コラム:一人でキャッチボール第3回 ── 文:高島学】

ブラジルが好きで、ブラジル人が好きだ。

今、自分がこうやって生きているのはホリオン・グレイシーが1993年11月12日にUFCを開いてくれたからだ。そして、その後の人生で幾度となくブラジルを訪れ、彼の土地に住む人たちに触れることができ、彼らの生き方が人間として非常に自由だと羨ましく感じるようになった(もちろん、それは長くても3週間ほどしか現地に滞在しない日本人の意見だ。現実はそうじゃないだろうし、経済、治安を考えると日本のほうが生活しやすい国だと理解している)。

正直なところ、自分から見るとブラジル人は凄く子供だ。なんでも懸命に自己主張して、その際の見た目の悪さなんて気にもかけない。それでいて、肉体美からオシャレにこだわっている。

悪い奴も多い。でも、そんな奴らがやさしい。収入や生活ということを考えると、日本より貧しい。それでも、心が日本人より豊かに感じる。おおらかに思える。皆、凄くフレンドリーだし――ブラジルや米国で彼らからはすぐにランチやディナーのお誘いがある。

良くいえば博愛主義。言い方を変えると自分勝手だ。皆に優しい。皆が好きで、下心がある。なんせ、「マナブ、アイ・ラブ・ユーと7回言えば、メイクラブだ」とか、「お前のワイフはここから12時間先を進む他の惑星にいるんだ。だから、ブラジルにいたらブラジル人の彼女を作れ」なんて平気でいうことができる。

ランチやディナーにしても、彼らは彼らが楽しいと思うから誘ってくれるだけで、自分のことを思いやって、そうしてくれるわけじゃない。人を誘っておいて、英語が話せる連中でさえ、2時間でも3時間でもポルトガル語でコミュニケーションを取り続ける。誰も自分の存在など忘れてしまっている。

そんな自由奔放な彼らが羨ましくてしょうがない。

そして、勝手ながら日本に住む日系ブラジリアンの皆が日本人とブラジル人の架け橋になってくれればと思うようになっていた。

自分が彼らと取材を通して知り合いになり始めた頃、決して日本人村における日系ブラジル人の評判は良くなかった。この国の風習や習慣に従わない。言葉が理解できないから、打ち解けない。子供を学校に通わせないから、非行に走る。そんな風に報道されることも少なくなかった。

彼らは日本に働きに来ていた。ひたすら、働き、お金を母国に持ち帰る。日本人と仲良くなる必要もないし、日本語を覚える必要もなかった。多くの日系ブラジリアンにとって、日本とはそういう場所だったのだ。

リーマンショック後、日本に残った人たちは異国で生きることを選択した人が多く――その距離が縮まってきたような気がする。以前は格闘技界にいる日系ブラジル人選手も、日本語を自由に操れない人が多かった。まだそんな空気を引きずっている時、ダニロ・ザノリニは自らの勝利のあとにまず日本語でファンに挨拶をし、それからポルトガル語で話した。

日本人よりずっと身内、仲間内のつながりが強い日系ブラジル人のダニロのマイクは大げさかもしれないが、衝撃的だった。だからこそ、MMAしか追いかけなくなっても金網のなかでキックを戦うダニロのことはずっと気になっていた。

「良い先生がいるから強くなる、違います。皆で一緒に練習するから強くなる」。2011年1月、まだお正月気分が残る名古屋から、国道41号線を北へ向かい――急激な坂道を登っていく最中にインパネに示されている外気温がみるみると下がっていく――岐阜県可児市で会ったダニロはそう言った。

対局にあるから羨ましく思ったブラジル人のダニロが、そんな風に日本語を操る。彼がどれだけ日本というお爺さんとお婆さんが生まれた異国で努力をしてきたのか窺い知ることができた。

1999年、19歳の時に初めて日本にやってきたダニロは当然、日本語は話せなかった。04年、ブラジルで経験のある空手やキックの自主練をしつつ、公園で指導を始めた。ブラジリアン・タイはここからスタートを切った。働くだけじゃない日本での生活を同朋に経験してほしくて。

05年に可児での生活が始まり、公営の体育館を借りるようになった。そして08年に常設ジムをオープンさせ、同時にプロキックボクサーとしてキャリアを積み重ねていった。

2017年7月15日、最後の試合。HEAT、ホーストカップ、ISKAの3本のベルトを仲間が高々と掲げ、花道を歩くダニロ。最後の花道を歩く彼は既に顔をくしゃくしゃにしていた。試合用のガウンは奥さんのお手製だ。引退を心から喜んでいるはずの彼女も最後の裁縫作業に涙し、その様子を眺めていたダニロも涙をこぼしていたという。

リ・ジフンを相手に9度目のHEATミドル級王座防衛を果たし有終の美を飾った

最後の勝利。現役生活、最後のマイクもダニロはまず日本語でファンに感謝の言葉を伝えていた……。引退から2週間と2日、小牧にあるBRタイにダニロを訪ねると、彼は現役生活には全く未練を残していない様子で、これからについて目を輝かせて話してくれた。選手生活の傍ら、愛知、三重、滋賀に9つのアカデミーを持つようになったダニロ。母国ブラジルはさらに上をいき、今年中に支部は50に増える。現地では自主興行も行っている。

この日はお母さんがブラジルよりやってきて、最初で最後の生観戦となった

「ブラジル人はやっぱりハングリー。向こうで勝った選手を日本に呼ぶ。そして、日本、韓国、中国に派遣する」というダニロ。BRタイ・ネットワークにおける人材育成と、マネージメント。既にビジネスとして成り立つ目星はついているようだ。ばかりか、ダニロは派遣会社を経営し、今後は不動産まで事業を拡大するという。

「ビジネスはすっごく楽しい。キックボクシングと同じ。失敗しても、次は同じ失敗しない。違う失敗をしても、同じような失敗はしない。しっかりとディフェンスを固めて、ジャブで様子を見る。で、チャンスと見たら攻め続けるの」

子供のように目を輝かせるダニロ。自由奔放なブラジリアンが、日本社会にしっかりと根を張ると、ここまで力強く生きることができる。ダニロの第二の人生に幸あれ――なんてエールは必要ない。リングの上と同様に、これ以上なく生き生きしている。

引退10カウントゴングを聞くダニロ

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