【コラム:一人でキャッチボール ── 文:高島学】19年ぶりのブランコ・シカティック──

日本のMMA界とブランコ・シカティックの交流が再び始まった

4月23日のパンクラス・ディファ有明大会にブランコ・シカティック率いるクロアチアMMA軍団が来日した。そのプロフィールによると、昨年11月にクロアチアの首都ザグレブ郊外で行われたRoad to Pancrase4人制トーナメントで勝ち上がったマルコ・ブルシッチとアントン・ラッドマンがシカティック率いるティガージム所属で、メインで久米鷹介と戦ったマティヤ・ブラジセビッチはアメリカン・トップチーム・ザグレブにてトレーニングを行っているという。

結果はそのブラジセビッチが久米に、ブルシッチとラッドマンはそれぞれISAOと佐藤天に敗れた。そんな彼らのことをシカティックは「ハートが強い」ことを第一の売りとしていた。いわずと知れたK-1 GP初代優勝のシカティックはその時点で38歳のベテラン・ファイターだったが、クロアチアの軍隊出身で眼光の鋭さは尋常でなかった。

クロアチア紛争にも特殊コマンド部隊の教官として参戦しており、彼自身の口から白兵戦のなか銃やナイフを武器に戦場で人を殺めたことがあることを聞かされたこともあった。そんな人間がK-1といえどもリングで戦うことに恐怖を感じるはずもない。ただし、彼は命を狙われる危険のない格闘技雑誌のインタビューを受けているときでさえ、前述したような眼光の鋭さが失われることはなかった。

そんなシカティックだが、先月の来日時には丸々と太り、どこかに暗い影を感じさせつつ、他の誰も持ちえないような威圧感が滲み出ていたあの頃とは何もかも違っていた。62歳になった彼は好々爺然とし、選手を語る時、自らキャリアを振り返る時、家族愛を話し続ける最中も笑顔を絶やすことはなかった。

非常にリラックスした表情のシカティックの様子を眺めていたとき、19年前──クロアチア・ザグレブで過ごした3日間が鮮烈なディティールとともに、記憶の奥底から湧き上がってきた。

 

19年前のシカティック。自らが経営してきた警備会社ティガーのオフィスにて

 

1998年の5月29日から31日、僅か2泊3日という行程で僕はザグレブを訪れた。目的はシカティック率いるティガージムに柔術クラスが設けられ、MMAらしきトレーニングが行われているという話を聞き、その確認作業を行うためだった。

UFCがネイティブ・アメリカン居住区で細々とイベントを開き、PRIDEもまだ2度しか開催されていなかった当時、MMAはごく一部の国と地域でしか行われていなかった。そして、ネット社会以前──それらの国の情報はごくわずかしか入って来ず、映像を確認できる大会など、本当に一握り。

ただし、格闘技は世界中に存在する。そして、一度開かれた『何でも有り』の扉はもう閉まることはない。なら、世界でどのようなMMAが見られるのか、空港のベンチでも、言ってしまえた新聞紙を敷いて列車の通路でも眠ることができた──若かりし頃の自分は(といってももう31歳だったけど)、オランダ、ロシアでMMAを巡った足でザグレブを訪れた。

あの時、ザグレブで自らの警備会社、そしてジムを案内してくれたシカティックこそ、体格はまるで違うが、先月の日本で見せたようなリラックスした笑みとジョークを続ける──これ以上ない温厚な空気感を醸し出していた。

ちなみにティガ―ジムで見られた柔術はブラジリアン柔術ではなかった。いわゆるジャパニーズ古流柔術。武器術であり、白兵戦、護身の術を繰り返し行う。シカティックは要人警護の会社を経営しており、教え子たちはSPが本職。実践トレを兼ねて、スポーツであるキックの練習にいそしんでいた。ただし、この日の指導はちょうど連休期間中ということもあり、クロアチア全土の催し物に列席する要人たちのSPを務めるためメインインストラクターのスレパン・ケルバヴッツァを始め、多くのジム生が不在のなか副師範のブラブコ・チョーリッチュによって進められていた。

「私も柔術の練習を始めたんだ」。シカティックは柔道着を着てマットスペースに姿を現した。ここから柔術の稽古は打撃からテイクダウン、そしてポジショニング&パウンド、最後は絞めや関節技の流れは反復するように変化した。気がつけば道着の上を脱いで、寝技のスパーリングに高じる者も出始めた。

張りつめた空気のなか、チョーリッチュのガードの中でもがき、腕十字を極められたシカティックだけが笑顔を浮かべている。「MMAになると10センチの距離でパンチを効かさないといけない」と話すシカティックは、まるでMMAという名の新しいオモチャを買い与えられた子供のように目を爛々と輝かせていた。

 

ティガ―ジムでの柔術の練習。ブラブコ・チョーリッチュ副師範代のガードの中にいるのが、修斗に来日したアンテ・ユーリシッチだ

 

練習後にはこの年の夏に結婚式を控えていたシカティックが、婚約者のイワナ・タビタブスキーさんを紹介してくれ、郊外の素朴でオシャレなレストランに招いてくれた。白ワインに炭酸水と氷を入れ、グラスが空になることを許してくれなかったシカティック。彼が、ホテルに送り届けてくれたとき、本来は泥酔状態に陥るほどワインをのまされていたけど、決して酔うことはなかった。

ホテルのエレベーターにも、部屋のテーブルライト付近にも『爆撃があった際の対処。退避路』がハッキリと記されている。美しいザグレブの街並みも、実はそこいら中に弾痕が見られる。

僅か3年前まで、クロアチア人の言うところの独立戦争、そしてムスリムを巻き込んだボスニア・ヘルツェゴビナ内戦により、旧ユーゴスラビアでは20万人以上の死者と、250万人に及ぶ難民を生んでいた。傷跡が随所に見える街でワインをしこたま飲んだって、頭痛はしても酔うことはできなかった。

その凄惨な日々を知っているからこそ、シカティックの笑みは底抜けに明るく、生きていることの証だったのだろう。

現時点で、最初で最後のサグレブ訪問から2カ月後、プロ修斗にブランコ・シカティク門下より2人の選手が来日を果たした。その1人アンテ・ユーリシッチは柔術のトレーニングに参加していたファイターだ。もう一人のスボンコ・セコリエビッチはSPを務めるために、あの日はティガ―ジムにいなかった。

あれから19年、笑顔が普通になったシカティクに率いられた3人のファイターがパンクラスで敗れた夜、ディファ有明から10キロしか離れていない舞浜アンフィシアターのメインで斎藤裕に下った宇野薫こそ、19年前にシカティックの教え子セコリエビッチに勝利しているファイターだ。

 

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